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差別って何だろう?! 障がい者の社会参加をこばむもの

日本の障がい者がおかれている状況

日本の障がい者人口は六五六万人、全人口の約五%にあたります。医療の発達によって障がいをもって生きていける人は増えてきました。

日本の障がい者施策は施設処遇と在宅支援の二極分化にあります。約一割の障がい者が入所施設で、それも大半が一生にわたる長期間を過ごしています。特に知的障がい者(一八歳以上)の入所率は高く、三人に一人は施設にいることになります。

たしかに施設は虐待でもない限り、命は保障してくれます。しかし、それと引換えに人生そのものを失っていると思います。皆さんはこれまで自分の意思でそれぞれの人生を歩んでこられたでしょう。しかし施設の中には、施設の都合で決められた単調なスケジュールの中で三六五日過ごし、ほとんど何の選択肢もないまま生きている人が六六万人いるのです。

人生の前半は養護学校で後半は施設、といった生きる時間と空間の分離による差別は絶対にあってはいけません。アメリカでは黒人と白人の分離は差別だとした判決がありますが、日本のこうした状況は、法的に入所が強制されていなくとも現実的には「制度的な差別」だといわざるをえません。

一方在宅障がい者の状況は、障がいのない人の就業率が六〇%なのに障がい者の就業率は一二%しかありません。これは障がい者に対する社会参加の障壁、就労差別の存在を示す数字です。働くことだけが社会参加のすべてではありませんが、働きたいのに働けないのが社会的差別の実態です。

今、障がい者に対する支援策は自立支援法しかありませんが、この法律は自立を支援するどころか、自立させないための法律のようなもので、実際に全国で大きな悲鳴が上がっています。こうした施し的な地域生活支援や施設収容の問題が根本的課題です。

差別とは?

例えば私はなぜ障がい者なのでしょう。多くの人は「足が動かないから」「階段を登れないから」などと答えます。彼らは「それが障がい者だ」と思っているからです。この答えはきわめて医療モデルに偏った考え方です。何をもって「障がい」と考えるかは、医療モデルと社会モデルの二つの概念があります。

例えばこの建物にはエレベーターがあり、私は二階の会場に来ることができました。もしエレベーターがなくて参加できなかった場合、その原因は私の足が動かないからでしょうか。仮にここが高層ビルの五〇階なら皆さんもエレベーターなしでの参加は難しかったはずです。高層ビルには必ずエレベーターがあるように、皆さんの基準でできないことに対して社会はあらかじめ何らかの手立てを打っています。しかし、障がい者に対してはそういった手立てを用意することなく、「できないのは足が動かないから」と原因を個人の問題で片づけてしまわれます。「障がい者のこうむる社会的不利は、社会のあり方に起因する」というのが社会モデルのとらえ方です。社会の側が変わればあたりまえに参加できるようになるという考え方です。

合理的配慮がないことも差別

車いす利用者がラッシュ時に駅に行くと「忙しい時に来るな」と改札で追い返された事件がありました。不合理に違う取扱いをしたことは差別だと認められました。しかし、改札は通すけれどホームから車両への橋渡しはしないという場合はどうでしょう。他の乗客にサポートしないのと同様に車いす利用者にも手を貸さないというのは、同じ取扱いに見えます。従来の概念では同じ扱いであれば差別とすることはむずかしかったのですが、ホームと車両の間に段差や隙間があって車いすで乗れないのであれば、実際にその人が不利益をこうむることは明らかです。障がい者が参加や利用できる条件が整っていないところでは、同じ取扱いでも合理的配慮を欠く場合は差別であるという概念が重要になってきました。(東俊裕弁護士の講演より)

「差別」と思われていることの中にもさまざまなレベルがあります。

◆悪意のある差別

◆悪意はないけれど、知らないうちにしている差別

◆できればしたくないけれど、やむを得ず障がい者を不利な状況に置いている

◆制度や法律の中に組み込まれている差別

◆建物・道路・設備などに組み込まれている差別

◆障がい者を排除している情報の手段・ツール

また、作為的・意図的な差別だけでなく、障がい者の特性に配慮しないために不利な状況を作り出している「不作為」についても差別と認め、合理的配慮義務を課すのが、諸外国では一般的な流れとなっています。

「障がい者だからといってバカにされる」「親が付き添えないと普通の学校へ登校させてもらえない」「就職試験すら受けさせてもらえなかった」「スイミングクラブの入会を断られた」「レストランの入店を断わられた」「車いすで電車に乗り降りできない」・・・・・

客観的な基準=ものさしが必要

こうして見ると社会のあらゆる領域で「障がいを理由とする不本意な扱い」が非常に多いことがわかります。特に行政窓口、保育所や学校の先生、お医者さん、警察官など、制度上の力をもつ立場にある人が制度や法律等社会に組み込まれている差別を肯定したまま、高圧的に見下した物言いや虐待・侵害にあたる行為をされる事例がたくさん出てきます。

しかし多くの例で、差別する側の人は、実は障がいについてよく知らないために、悪いことをしているとは思っていない、偏見を偏見と思っていないのではないでしょうか? 場合によっては「本人のため」という押しつけさえあります。

障がい当事者が「自分の人権が侵害された。尊厳が傷つけられた」と感じる場面が数多く存在する以上、何が差別なのか? を示す客観的な基準=ものさしが必要です。そのものさしこそ「差別禁止法」であり、「差別をなくす条例」です。

理不尽な理由でつらく悲しい思いをしている人は、障がい者だけではありません。「差別は人と人との関係の希薄さも一因、この条例をきっかけに、理解と共感を深めていき、そのことが生きる力を育む、そして誰もが暮らしやすい地域づくりにつながる」と千葉県では語られています。さて、みなさん、どう思われますか?

(2007/02/20)



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