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特集:すいたへいわのつどい地雷出前教室

地雷の犠牲を生み出す現実って何だ?

「地雷という兵器は、人間の恐怖心や優しさをも徹底的に利用して相手に打撃を与える『悪魔の兵器』です」。こう語るのは、第14回すいたへいわのつどいで講演した上泰歩さんです。

2003年に、自転車で5ヵ月間かけて北海道から沖縄までの「にっぽん縦断地雷出前教室」を行い、今も地雷の怖さや影響を訴え続けています。今回は、上さんが語る地雷の話を中心に平和について考えてみたいと思います。(文責・編集部)

戦争後も被害出す地雷の怖さ

上さんは、地雷の怖さについて次の3点を指摘します。まず@精神的作用です。激戦地域で5人の兵士のうち1人が敵の攻撃で亡くなったら、4人は戦闘を続けます。しかし、足に重傷を負ったら、治療ができるところまで2人で運び、助けたいと思うのが人間の心理です。一人の兵士を、殺さず怪我を負わせただけで兵力は半分以下となります。だから地雷は火薬の量をわざと少なくして、成人の片足をなくすぐらいの威力におさえられていることが多いそうです。仲間を助けたいという優しい気持ちをも利用する悪魔的な卑劣さです。

2点目は「時間的作用」です。戦闘をする兵士が闘い続けるためには休憩や睡眠、食事の時間が必要ですが、地雷は、24時間365日休まず働き続けます。さらに、1個数十円から数百円で手に入る地雷は、一度埋めてしまえば半永久的に相手に恐怖と打撃を与え続けるのです。このため戦争が終わっても、貧しい農民や子ども達が、今も被害を受けています。

3点目は、「空間的作用」です。たった1つの地雷を埋めることで、どこにあるかわからないために広い範囲の土地を地雷原として、使えなくすることができます。貧しい農民が多いカンボジアでは、地雷原とわかっていても生きるためにそこで生き、農作業をせざるを得ず、復興作業の大きな妨げとなっています。

全世界には、2003年度の時点で約8000万個の地雷が82ヵ国に埋まっていると言われています。さらに世界の78ヵ国の武器庫には、合わせて2億〜2億1500万個の地雷が保管されているそうです。これ程たくさんの地雷が埋められてしまったのは、1個の値段が3jから30jと安価で設置も簡単だからです。こうした地雷の被害者は年間2万人、つまり1日あたり70〜80人が今も被害を受け続けており、そのうち約75%が一般市民です。

難民問題から地雷問題へ

地雷教室で上さんは、本物の地雷を見せながら説明してくれました。360種類以上ある対人地雷のうち代表的な地雷です。@は、3〜5`以上の圧力で爆発するものです。動物が被害にあうこともあります。Aは、手榴弾と同じでピンが抜けると爆発する仕組みです。ジャングルなどで土に刺し、ピンの先から近くの木や草に糸を張って、足を引っかけると爆発します。Bはバタフライ(蝶々)と呼ばれる地雷です。飛行機から大量に撒きます。蝶々型なので子どもが拾ってさわっているうちに爆発します。この他にも人形の形をしたものもあり、明らかに子どもを標的にした地雷です。手が吹き飛ばされたり、目が見えなくなることも多く、病院に運ばれても貧しい家庭の子はそのまま捨てられ、障がいを抱えた孤児として生きていかねばならない現状があります。

カンボジアでは、今も手足をなくす被害にあう大人や子どもがたくさんいます。

「みんな関心を持ってくれる」

上さんが、地雷問題に取り組むようになったきっかけは、テレビで観た「難民」の暮らしぶりにショックを受けたことです。高校に進学する頃には、漠然と「将来は難民の手助けがしたい」と思い、難民支援をするNGOやボランティアに憧れるようになっていました。

その頃、「地雷ゼロキャンペーン」のテレビ番組を観て地雷被害を知り、文化祭で地雷撤去の募金に取り組みます。地雷をテーマにした劇を上演し、NGOやTV局から借りた地雷原の映像を流して訴えたところ、文化祭2日間で集まったお金は総額で10万円!

「きちんと伝えれば、みんな関心を持ってくれる」。この成功で「やっぱりNGOに就職したい」という思いが強くなりました。

ピースボートでカンボジアへ

高校卒業した上さんは、両親を説得して、ピースボートで活動するために東京に向かいました。ピースボートは、国際交流を目的としたNGOで、地球一周をはじめとする「国際交流の船旅」をコーディネートしています。ピースボートのボランティアとなり、地雷廃絶キャンペーンに参加し、集めたお金がカンボジアに届けられ、地雷撤去や小学校を建てる資金になる様子を学びました。

2002年12月、上さんは、東京・晴海埠頭から出発した地球一周クルーズに乗り込み、カンボジアでの「地雷問題検証ツアー」に、参加しました。カンボジアは、1970年から90年まで内戦が続き、今も多くの地雷が残っています。地雷撤去作業も間近で見ました。

貧しさと戦争

地雷撤去は、まず金属探知器で地中の反応を確かめます。金属を感知すると地面から30度以下の浅い角度で慎重に細い棒を土に差し込んでいきます。棒の先に感触があれば、スコップで少しずつ土を掘って、地雷が見えてきたら、最後はハケを使って土を取り除きます。

撤去作業の見学後、地雷で足を失った男性の家を訪ねた上さんは、地雷の怖さと共に貧しさに直面しました。被害男性は、一家で二人も地雷の被害にあっているのに、引っ越す余裕もなく、いまだに地雷原の中で生活を続けていました。戦争が貧しさを生み、その貧しさが地雷の被害を広げています。

「こうした悲惨な状況が作り出されることを知りながら今も地雷や兵器の開発を行う人たちがいる」こうした現実も目の当たりにしました。

にっぽん縦断地雷出前教室

カンボジアから帰った時に「私に何ができるんだろう?」と考え、思いついたのが「にっぽん縦断地雷出前教室」でした。

ちょうどイラク戦争が始まり、「ここでも子ども達が犠牲になっている」―そうした怒りも胸に、5月15日札幌を出発、10月15日に沖縄到着の予定を立てました。本物の地雷3種類とカンボジアのビデオや写真などの荷物を自転車に積み、5ヵ月間の自転車旅行が始まりました。

出発にあたり上さんは、3つの目標を決めました。@各県で1回は地雷教室を開く、A地元の新聞社やラジオ局にアピールして、「地雷出前教室」のことを知ってもらう、Bカンボジアに小学校を建てる費用(340万円)を募金で集める、というものです。

といっても、地雷教室は順調に進んだわけではありません。北海道は、仲間の支援もあり順調な滑り出しでしたが、次の青森では、新聞記事への問い合わせもゼロ。弘前駅前の小さな公園で青空地雷教室となりました。 

また、仙台から郡山まで130`の自転車走行は、あいにくの雨。翌日の昼休みの郡山「地雷教室」に間に合わすために、夜通し走り、だらだらと続く上り坂に疲れもピーク。半分居眠り運転で電柱に衝突・転倒しました。時間に追われ、怪我をして、まだまだ続く上り坂。「止まりたい、休みたい」との思いをこらえて走り続けましたが、会場に着いたのは、開始予定5分過ぎ。

何とか「地雷教室」を終え、主催者の後ろ姿を見送った途端に、体に力が入らなくなり、座り込んでしまったそうです。

石垣島での地雷教室

地雷教室の最終目的地は沖縄です。九州から船に乗った上さんは、石垣島・「ろうあ者友の会」の方々の招きで最後の地雷教室を行いました。初の手話通訳を通しての教室。緊張しながらも、予定時間をオーバーするほど一生懸命話しました。

「地雷の話をテレビで放送していても、字幕がないとよくわからないけれど、今日はよくわかったし感動した」との参加者の感想もいただきました。

でもその夜のおつかれさまパーティーで上さんは少し疎外感を感じていました。手話がよくわからないためです。静かに盛り上がっているパーティーの中で、一人のろうあ者が「健常者の中にいるろうあ者は、いつも、その疎外感を感じながら生きているんだ」と教えてくれたそうです。「相手を知り、相手の立場に立ってモノを考えることの大切さを初めて実感できた」経験となりました。

5ヵ月間、3500`の長い旅を終えた上さんは、「みんなが応援して支えてくれたから最後まで続けられた」と振り返ります。旅を通して「一人じゃ生きていけないし、みんな支え合って生きている」という確信も得ました。

カンボジアで地雷撤去に必要な費用は「1uあたり約100円」だそうです。「皆さんも周りの人に広げていってほしい」―ピースボートの専従スタッフとして活動を続ける上さんは、こう締めくくって、地雷教室を終えました。「ピースボート地雷廃絶キャンペーン P-MAC」(口座名)で、募金を受け付けています。ご協力下さい。郵便振替口座=00130-3-557600(終)

(2008/09/10)



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